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ヒナタノオト工芸帖

日本橋小舟町の工芸ギャラリー・ショップ「ヒナタノオト」の作品ノオト

現場、その只中へ

夫N氏がタビ?に出てやがて一か月。
どこに?何を?
と尋ねられると、返答に困ります。

一応鴨川から西へ西へと進んで九州で竹細工を。
でもなんでわざわざ・・?
と問われるとまたまた窮します。

庭先仕事、といって突然どこかで竹を編みだし、
請われればそのお客さんの庭先で編みだしたり。

まあ、竹細工の原点(N氏は熊本県人吉盆地のカゴやさんで修業をしましたから)
と言えばそれまでなのですけれど、なんで原点かといえば、
かなりタクラミ深いものがありそうです。


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N氏のいない鴨川で、読書を。
11年前の火事以降に手に入れた本の数のすごさよ。
いわゆる民族学、文化人類学の類が多し。
その中でも、阿部謹也さんのものは、私も好き。
小春日和にウッドデッキで読書です。

101109g (この付箋のつきまくりにびっくり)

今日選んだのは「中世の窓から

贈りもので結ばれた世界
衣服のタブー
子どもの遊び
つきあいの形・・・

興味深い小見出しの中でも特に丁寧に読んだのは
「職人絵の世界」。

ニュルンベルクの大商人メンデルが設立した、手工業従事者が
退職後に住むための養老院「12人兄弟の館」。
そこで約370年の間に暮らした799人の老職人のほとんどすべての
肖像画が残されているのだそうです。
(注:この本の中にその肖像画すべてが
掲載されているわけではありません)

101109i

こちらは靴職人。
とんがった靴が当時流行っていたそうですが、
私もトリッペンのそういう靴を持っています。
(ちなみにトリッペンというのは下駄のような二本歯のサンダルだと
ここにも書かれてあって、それをはいた男の絵もあるそうです。
トリッペンってそういう意味だったのですね。。)


101109h

こちらは仕立て職人。
当時作られていたものや、作るための道具が興味深く。。
(絵のタッチもなんだか好みです)

職人の置かれた立場や当時の状況が、とても読みやすく書かれています。
学術書でもあるのでしょうけれど、平易で読みやすい文章。
これが阿部謹也さんのすごいところと思います。
興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、
図書館などでいろいろご覧になってみてはいかがでしょうか。



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で、件(くだん)のN氏。
竹細工がしたいばかりで、庭先仕事に向かっているのではないのですね、
おそらく。。。
身を低く置くことでしか見えてこないものを見たいのでしょうか。
ほんとの意味でかなり欲張り者であります。。。

今ネットを使えばたいがいのことはわかる、ような気がしますけれど、
それってほんとにほんとのことなのでしょうか??
情報って、誰かがつかんだものをうのみにしてしまいがち。
二次情報、三次情報はあたりまえになっていますね。

阿部謹也さんが、ドイツでうず高く積まれた
原石のような資料からコツコツと研究を進めたこと、
つまり一次資料を作りながら研究を紡いでいったこと。
(デンマークでハマスホイの研究をしていた健司さんもそうだったなぁ)
一方、ほとんどの研究は、すでに誰かが一次資料を作ってあって、
それを解釈していくことで「研究」を進めているのかもしれません。

N氏。
それを上回ることをしようとタクランでいるのかも。
一次資料以前の資料、そう、現場その只中に入って
何かを見ようとしているのでしょうか。

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ホームページやメルマガを作ってくださっている方から送られてきた
今日の様子には、町役場の駐車場に寝泊まりしながら、
盗電をたしなめられる一件が。
そんなときでも、相手を観察しているんですから、まったくコワいものはありません。
(たぶん、私以外は(笑))

そして今は久しぶりのトカラ列島。
T大の学生君を引き連れて、資料となるべく?行脚中。
竹細工入門の本の撮影をしてくれたカメラマンさんまで同行というのですから
念が入っています。

ちなみに、こんなメルマガでしたので、興味のある方は read moreを
(長いけど・・& 一部知名、人名を私がイニシャルに変えています)

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一〇月二四日 曇。いまにも雨が降りそう。

早朝に事件が起こる。
四人組の来訪を受けた。
代表格の四〇代の長身の男が表情を殺して発言した。
「電気は誰の許可をもらって使用しているんだい?」
その一語に、何の反論もできない。
背後に散ってこちらを見下ろす三人の若者たちの目は、
非常の事態に備える構えを隠さなかった。
黙っているふたりに追い打ちがかかる。

「役場に報告しようかと思ったが・・・・・・」

身につけている薄黄の上下は、村役場の職員も着ていた。
歯切れの良いもの言いが、脳天に浴びせられる。

「昨夜の内に注意しとけば良かったが、
今朝になってしまったが、役場の方からも、
電気や水道は極力節約して使うように、言われとるし、
今後は使わないように。
駐車場の使用は、まあ、いいことにするから・・・・・・」

前夜、川向こうに建つ地区の公民館から明るい光が漏れていた。
何かの集会がもたれていたようだ。
その席で我々の盗電が取りざたされたに違いない。

わたしは、制服姿を見ると、すぐに逃げ出す癖がある。
こそ泥をしているという自覚があるからだろう。
電車の車掌さん、警備員、お巡りさん、そして、この薄黄色の制服、
どの人にも自分から近づこうとしない。
心を離して、謝罪のコトバを返した。
その人はこうも付け加えた。

「自販機も電気を使っとるが、あれは、皆が利用することやし、
役場の方でも咎めはしない」

聞きもしない言い訳をした。してみると、
自販機が販売所のソケットから電気を引いていることが、
一度は問題にされたのであろう。

コカコーラの真っ赤なペイントに包まれて、缶入りの飲み物が終日売られていた。
冷えたのもあれば、暖かい飲み物も揃えてある。
どちらも電気のおかげであった。
電気代は村の予算から払われていることになる。

「あんたたち、悪い人でもなさそうだし・・・・・・
寒くはあろうが、電気を使わないように」

電気ストーブでも使っていると思っているようだ。
同情のコトバも混ざっていたが、
こちらに伝わってきたのは、血の気のない責めであった。

四人はあっさり立ち去った。
わたしはさほど滅入ることもなく、カライカゴを作り始める。
前日に二度目の切り出しをして、黒竹を三本用意した。
回しヒゴをつくり、それを回周させて編み上げる。
縁巻きをのこすだけとなった。

夕方、写真を撮りに出かけた荒川氏が帰ってきた。
隣村にある民俗資料館にいったら、
製茶具が展示してあったという。
デジタルカメラに収められた被写体を見せてもらう。
エビラの名前が付けられている。
この写真さえあれば、何とか復元ができそうだ。
明日中にふたつのカライカゴを完成させて、山を下りよう。

一日の仕事を終えて、暗闇の中で、懐中電灯を点けて食事を摂る。
小粒の雨も降ってきたことだし、また、寒くもあったから、
ふたりは早めに各々車に戻って、床に入った。

夜の何時ごろであったか、一台の車が駐車場に入ってきた。
ベニヤ板で囲まれた”移動マンション”からは、外の様子を覗うことができない。
ここに入ってくる車は自販機の使用者か、さもなくば、トイレを使う人である。
エンジン音を響かせたまま車は止まっていた。頭の中は眠っていたから、
それが、どのくらいの時間だったか分からない。
長くはなかったであろう。はっきり憶えているのは、
ドアーの開け閉めの音がしなかったことである。


一〇月二五日(日)曇、午後から小雨。
朝は早めに起きて、仕事を始める。
ふたつのカゴを早く仕上げたいと、気持ちがせいた。

八時過ぎ、エビラの注文者が立ち寄った。
夫婦連れである。これから、熊本に遊びに出かけるのだという。
言われてみて気づいたのだが、日曜日であった。
休日を楽しむ習性のないわたしには、新鮮な響きがあった。
ウイークエンドを待ち望む日常がないということは、
労働と休暇という区分けがないとも言える。

前日に荒川氏が撮ってきた写真を注文主に見せると、
「じゃった、じゃった」と、合点した。
これを参考にしてつくるから、と申し出ると、
「あとは、お任せする」の一言を遺して車に戻った。

編むのは自分の家のガレージの中でやればいい、と申し出てくれた。
発車する前に、名前と携帯電話の番号を紙切れに書いて渡してくれた。
M村の役場の背後の高台に広がるK集落の住人で、名前を K 氏といった。

一〇時ごろ、雨が本降りになってきたので、販売所の軒下を借りることにした。
午後三時にふたつができあがる。
おおよその完成時間を知らせておいたので、雨の中を傘をさして、品物を取りに来た。

小さい方のカゴは四五〇〇円を請求したが、相手は五〇〇〇円を渡してくれた。
ありがたく貰う。大きい方のは五〇〇〇円を請求する。
あの大声の女の注文者である。

わたしに代金を払った後で、「何か菓子でも持たそうか」と、こちらの顔をうかがう。
販売所の棚に並んでいる品のひとつでも買い与えようか、と言わんばかりであった。

「菓子以上のモノを貰ったのに、何が要りますか」と、
冗談を飛ばしたつもりだったが、相手は笑わない。
庭先仕事を終えて帰る職人に日当を払い、
みやげを持たせるのが世の習いであった時代を引きずっている。

翌年の来訪が自明のことであるなら、石(いし)摺(ず)りが破れても、安心である。
カゴ屋はサービスで新品と取り替えてくれる。先回りした礼をしておけば、より安心である。

つまり、みやげものを持たすということは、来る年の贈与の強制なのである。
用語を説明しておくと、石摺りとは、カゴの底に取り付けてある竹である。
カゴを石の上で摺っても、底が破れないための、簡便な防具である。
野良で一年も使えば、破損することは十分に考えられるから、
これは取り替えが前提の部材である。
馴染みのカゴ屋が来たら、前のを捨てて、新しのと取り替えてもらうのが習いである。
使い捨ては、負の思想なのではない。
本体を護るための、欠くことのできない積極思想である。

一七キロメートルの山道を三〇分かけて下る。
途中ですれ違った車が一〇台であったが、すべてが軽自動車であった。
すれ違いもままならない車幅の道を利用する人たちの選んだ車種である。
すれ違いの術も熟達している。

七曲がりの道ではあっても、対向車を素早く見つけ、
道幅の膨れたところで待機している。
どこが膨れているが、頭に入っているらしい。

まるで、あらかじめ約束でもしているかのような滑らかさで、車はすれ違って行く。
M村の商店街まで下る。
日向から来たときの道である。近くにあるM温泉に浸る。

買い物をしてから、一五分離れたオートキャンプ場で停まる。
晴れ渡った天空に三日月が出ている。
そのすぐ下に金星が輝いていた。あまりの明るさに、他の星が姿を消している。

暗くなってから、東京のダイサク君から電話が入る。
鹿児島で合流して、トカラ諸島の平島へ行くことになっている。
一一月二日に鹿児島港を出港する下り便でわれわれは向かうのだが、
ダイサク君は、その次に出る六日便に乗ることになった。
わたしの連れ合いの誕生日であったので、携帯電話を通して祝いのコトバを贈る。


一〇月二六日 雨

K氏へ連絡して、材料の竹切り場を案内してもらう。
切り出し作業は雨上がりにすることにした。
午前中は公民館内にある図書室で『M村史』に眼を通す。

午後、館の駐車場で昼食を摂った後、午睡を一時間する。
二時半に雨が上がったので、K氏宅を訪ねて、竹切りをする。
帰りぎわに差し入れを受ける。
シシ肉と栗の渋皮付きの丸ごと煮であった。
煮付けといっても、ご飯のおかずではなくて、茶菓に向いている。


一〇月二七日 快晴

T神社前の広場で竹割りを始める。
Tジンシャと発音する。けっしてジンジャとは呼ばない。
この広場はT伝統芸能伝習館の前庭でもある。
この傾斜地の村にしては贅沢過ぎるほどの広さがある。
以前は幼稚園が建っていた。

それよりも前は、この神社のための空間であったであろう。
広場の隅に立つ、二〇〇年の樹齢を重ねた杉が二本、
仁王門のようにして拝殿に向かっている。

この広場を借りられることになったのも、K氏の口利きであった。
初めK氏は、道端で竹細工をすることを勧めてくれたが、断った。
竹のクズが道を汚すのを嫌ったからである。
舗装道ではあるが、道脇の一部に砂利が敷してある。
細かな竹クズが砕石の間に食いこむと、なかなか取れない。

物珍しさも手伝って、何人もの見物客が訪ねてくる。柿を差し入れてくれた人がいた。
この人は、ポケットに何個かの柿を入れていて、その内の四個を置いていった。
一〇年前に東京の練馬区から帰ってきた人である。溶接工であった。

久しぶりに洗濯をする。
広場にロープを張って、二人分のパンツやシャツを干した。


一〇月二八日 快晴

次々と注文がきて、これをこなすとなれば、鹿児島へ向かう途次に訪ねる予定をしていた、
M上村の友人宅に寄る時間がなくなる。そのことを友人に電話で知らせる。

「すぐそばまで来ておって・・・・・・」と言われて、言い訳をする。
「帰路に寄らせてもらうよ」と、逃げを打つ。

差し入れがあった。かずちゃんから柿が四個、
はるみちゃんから、生みたてのタマゴ五個。
「・・・・・・ちゃん」と呼び合ってはいるが、子どもではない。
孫が何人もいる七〇歳の人である。
はるみちゃんはK氏の連れ合いである。

かずちゃんは竹が大好きで、
違った種類のカゴやザルを広場に運んで来て、披露してくれる。
T町の職人が編むカライカゴはひときわ美しかった。
夜、K宅に招かれてご馳走になる。
蜂の子を入れた焼き飯は秀逸であった。


一〇月二九日 快晴

朝、七時に始業。カライカゴ三つを編み上げる。
始業直後にK氏夫人がやってきて、差し入れしてくれた。
ショウガの砂糖煮と蒸かし芋を二本。
夕方は暗くなる直前まで仕事をする。
食事の準備は一切を荒川氏がしてくれた。

仕事上がりに温泉に浸かる。夜、月の下で食事をする。
鶏肉のシチューと、スパゲテイー・サラダがおいしい。
地元の焼酎である「園の露」が喉もとを鳴らす。
K氏がやって来て、しばらく話した。

寝る前に鹿児島のジェフに電話連絡する。
この青年は宮本常一の『忘れられた日本人』を英訳した人である。
青年は鹿児島県下の小さな部落の区長をしている。

青い眼が黄色い肌の集落をどのように見ているのか、
わたしには興味がある。
サイードもアドルノもわたし以上に読みこなしている。
非ヨーロッパへの関心は若くして芽ばえた人である。
わたしは一年半ぶりの逢瀬を期待したのだが、
実母がアメリカから面会に来ているので、今回は時間がさけないとのことだった。


一〇月三〇日 快晴

きょうも朝の七時前から仕事を始める。
山芋の天ぷらと生みたてのタマゴ五個を、はるみちゃんが差し入れてくれる。
道に出た荒川氏が、お婆さんから柚を三個貰って帰ってきた。

氏が二日前に、行商の魚屋から刺身を仕入れたとき、その場に居合わせた人である。
元溶接工も再度やってきた。柿をふたつポケットから出してわたしの前に並べた。
自作のメジロカゴを持ってきて披露してくれた。
おとりのメジロも木を彫って作ってあった。
緑色に染色してあり、これでも十分にメジロが寄ってくるとのことである。

多いときには三〇匹を飼っていたそうだ。
小鳥を友として日を送っている。

ひとり暮らしだから、柿を食いきれない、食べてくれ、
というのが差し入れのときの添えコトバだった。
明日中にすべてのカゴを作り終えなければ、島行きが危ぶまれる。

午前中に、縁の処理をのこして、カライカゴを四個を編み上げる。

午後からは、エビラの縁を植物のツルであるツヅラ、別名カヅラで、縛って完成させる。
エビラは、偶然にもK氏の納屋から発見されたので、新規に編まないですんだ。

ただ、縁が針金で処理されていたので、その部分だけをツヅラに換えた。
それと、かずちゃんとはるみちゃんのカゴの修理をする。
ひとつはカライカゴで、もうひとつは米揚げソーケ(ザル)であった。
そうした修理・改修を終えてから、カライカゴの縁巻きを始める。
ふたつを巻き終える。

終業は六時近かった。関東よりも暗くなるのが三〇分は遅い。
こんなに長時間の作業は久しぶりである。
夕食は鶏肉で作ったツクネの鍋料理であった。
差し入れの柚をタレに絞って入れ、
それを付けた白菜とツクネはこの世のものとは思えない。


一〇月三一日 晴、午後から曇り、夕方から雨

カライカゴの大きいのを頼まれていたが、間に合わない。
次回の訪問のときに作る約束をして、注文を取り下げてもらった。
作り手が断るということは、わたしの師匠が知ったら、さぞ驚くことであろう。

他界して三四年になるから、耳に届きようがない。
すべての職人がそうだとは言えないが、暮らしにゆとりがある。

昭和二〇年代、つまり、一九四五年から一九五五年代に、
師匠はこの近辺の山村を渡り歩いた人だが、当時は、注文を貰うことは、
生活が安定することであり、出発を遅らせてでも、品物を納めることを優先させた。

いま、わたしは自身の都合を最優先させて動いている。
現金に不自由しているという意識はあるが、食うや食わずではない。
差し入れの食糧があり、小銭を握って商品を買いに走ることもできる。

程度の差はあっても、飽食の時代に生きる職人なのである。
第一、ガソリンを使って自家用車を走らせての行商である。
けして、ワラジ履きではない。

土地の空気を肌に受けないで、密室の中でジャズを聴きながらでも移動できる。
これは、タビではない。移動である。

午後三時にすべての仕事を終える。
注文主たちから現金を貰い、再会を約して広場を後にした。

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※編集人から:皆さんの感想、激励をお持ちしています。

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トカラ塾MM 第14号 ========= 2009-11-10発行
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