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ヒナタノオト工芸帖

日本橋小舟町の工芸ギャラリー・ショップ「ヒナタノオト」の作品ノオト

手さじ

ずっと、エントリーしようと思っていた、斉藤田鶴子さんの手さじ。

黒田維理詩集の中の「ナポリのナプキン」
を読んで、やはり、今アップしようと。


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手しごとを結ぶ庭
で書きました田鶴子さんと亜麻(リネン)の布との出会い。
それは、ナポリでのことだったのです。


今は夫となったアレさんの実家で、お母様が結婚したときに
持ってきたという、リネンの布と出会った田鶴子さん。
ごく日常に使うタオル、手ぬぐい、としてのその布の感触が、
田鶴子さんの布作りへの舵を切っていくこととなります。


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tesa

お正月にイタリアから帰国した田鶴子さんが、携えてきたリネンの作品。
なんとも美しいストールのほかに、手ぬぐいが数点。
リネンの手織り布。
手ぬぐいと思うととても安価ではありませんが、
作り手からすれば、どんなに大変なお仕事でしょう。。


「田鶴子さん、これはお仕事として見合うものなのかしら?」
仕事の重さからすると、とても採算に合わないように思えましたので、
思い切って聞いてみました。

そのとき、田鶴子さんは、沖縄の手さじのことを教えてくれたのでした。

漁に出る兄に、妹が織った布をお守りのように渡す風習。
いつも身に触れていてもらう布。
自分が織り続けていきたいのは、まさにこういう布なのだと。


弟を亡くした私には、お兄さんを亡くされた田鶴子さんの思いが
少しわかるような気がしました。
そして、そんな思いを真ん中に置いての布作りは、
汲めども尽きぬ深さと広がりのある、確かなものなのだと感じました。
作り手を思ってのこととは言え、見合う、見合わないを問いかけた
自分が恥ずかしくなりました。


お兄さんの遺された蔵書の中に、「手さじ」のことが書かれた頁を
見つけた田鶴子さん。

「手さじ」の単語には鉛筆で「たづの布のことか」
と書かれていたといいます。


岩田慶治さんの著書「からだ・こころ・たましい」

少し長いですが、田鶴子さんが打ってくれた文を、以下に写します。

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からだ・こころ・たましい
岩田慶治 著


3.たましいを持つもの
その三

沖縄の島々には、たいへん有名でひろく知られた「妹の力」についての信仰があった。
海上にでて漁をする。異郷、異国の地ではたらく。
そういう男たちが自分の女のきょうだいがこころをこめてつくった手さじ(てぬぐい)を身につけていると、どんなあらしにも船はしずまず、どのような危険をも切りぬけてぶじに故郷にかえることができるという信仰である。

一まいの手ぬぐいが男の危機をすくい、いのちをたすける。
ある意味ではおまもりを身につけるのと同じである。
前にはなしたタイのチャンパー樹の話ともつうずるところがある。
海上にでて大波にもてあそばれた時、船はいつしずむかわからない。
いのちの危機である。

そういうときにSOSを発しても、船をかるくしようとしても、ドリンク剤をのんでも、すでに手おくれなのである。
そのとき、こしにさげた手ぬぐいをとりだす。
そうすると、こころをこめてそれを織りあげてくれた姉あるいは妹のこころが、血すじのつながりがおもいうかぶ。

同じ母からうまれた姉妹が故郷で自分をおもっていてくれる。
そう気づくと、自分の身にせまった危険を、いっとき、わすれて、こころが故郷にとんでいく。
波だちさわぐ時間のなかに、一瞬の凪が見える。
海にポッカリと穴があいて、海の底のやすらぎがおとずれる。
はげしくゆれる時間のなかで、時間がとまる。

そのとまった時間を、姉妹と、そして母と共有していることを感ずる。
そう感じたとき、急に勇気がわいてくるかもしれない。
ドッと大波にのみこまれて、船もろとも海のなかにひきこまれてしまうかもしれない。
どういうことがおこったとしても、男は「妹の力」によってすくわれるのだ。

生にも、死にもかかわらない「永遠の時」を手にいれたのだ。
自分のいのちをこえる。
海の表面のようにザワザワとたちさわぐ波のいのちではなく、しずかで、どこまでも深い海の底のいのちを実感する。
永遠の時に手をふれるということが、生きることの出発点なのである。

兄弟姉妹はヘソの緒によって同じ母にむすびつけられている。
そのヘソの緒が切れてしまったあとも、兄・弟・姉・妹と母とは同じ時を共有している。
同時という深い時のなかでいっしょに生きている。

こういうかんがえをボルネオ内陸に住むドウスン族がいっている。
民族としての長い長い経験のつみ重ねの上にたって、ドウスン族の宗教的天才がいったことばである。

カチカチと一直線上をすすんで、もどることのない時間がある一方、渦巻きのようにグルグルまわりながらしだいに深まっていく時間がある。
時間の底、その根っこがある。
時間の根っこがあり、そこから誕生した時間の大波小波がある。

われわれはカチカチと切りきざまれた日常の時間のなかに生きている。
それだけではいけない。もっと深くてひろい、そして長つづきする世界にでようというのが宗教の出発点なのである。

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