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ヒナタノオト工芸帖

日本橋小舟町の工芸ギャラリー・ショップ「ヒナタノオト」の作品ノオト

走馬灯

昼過ぎまでコルトンでワーク。
「工房からの風」、企画、進行中。

車で鴨川へ。
1時間半のドライブ。

夏のまさをなる青空
かと思いきや、ワイパー全開のゲリラ豪雨あり。

尚さんは、今朝母宅から秩父へ。
私は今晩、鴨川でアカスケのお守。

稲穂が垂れ始めている。
お盆には、新米の収穫が始まるんだろう。

昨日から父がJ天堂へ入院。
2週間、私も1日ごとに通う日々が開始。

明日はヒナタノオト。
器のご紹介ができますように。

走馬灯のようにまわりゆく日々。



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以下、ちょっとセンチメンタル


病室でつけたテレビでは、長崎の原爆忌の模様。
父とふたりで鐘の音を聴く。

原爆の日。
14歳の父は広島にいた。

出雲文化圏、島根との県境の山峡の村の校庭。
食用の草刈りをしていたとき、
街の方がものすごく光ったのだという。

国民学校高等科一年の春。
村から選ばれて4名が広島市の県立工高を受験したという。
今の広大工学部の前身でもあったこの学校は、
軍都広島において、軍事技術のエリートを育成する学び舎であり、
親族の期待を背負って受験に臨みながら、
色盲の気があったゆえに父は試験に落とされた。

県立工高は、爆心地から2㎞。
原爆の日、校舎は大破。
ほとんどの学生が即死または数カ月のうちに命を落とした。
父と共に受験した同郷の学生も帰ってくることはできなかった。

父から聞いた原爆の話は、街の方がものすごく光った、というフレーズだけだ。
今までもそれとなくもっと聞き出そうとしたけれど、
それ以上父の口から原爆について語られたことはない。

爆心地から離れてはいても、
最寄りの三次駅には広島駅から被爆した人々が乗り込んだ汽車が到着しては、
地獄図さながらの様相であったと書物で読んだことがある。
14歳の父がそれを知らなかったはずはない。
けれど無口ではない父が語らないということは、
語る術もない、ということなのだろう。

この数カ月で急激に老いが進んだ父の耳に、
同じ原爆が落とされた長崎の鐘の音はどう響いたのか。
その後65年を思うままに豪気に生きて、
今はその「気」が日々鎮められている。

毎年、原爆の日が巡ってくると、
生きている不思議を心から思う。
父が色盲でなければ、今、私はここにいなかった。
思えばどれほどの理不尽を通されたことかしれないが、
それでも父としてこの世に存在していた、
そのただ一点のことだけで、私が父を看ることは当たり前、
そう思えてくるのだ。

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