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ヒナタノオト工芸帖

日本橋小舟町の工芸ギャラリー・ショップ「ヒナタノオト」の作品ノオト

縞模様

加賀の曽宇窯、橋本薫さんから「文様つづり」の第二稿が届きました。
(前にいただいていながら、なかなかエントリーできずにごめんなさい!)

身近ではウサ村さんがストライプ好きです。
私は着るものでは、シマよりチェックが多いかなぁ。
なんででしょうね、こういう好みって。
でも、シマ文様自体には心惹かれます。


それでは、しばし、知を楽しむ時間をお過ごしくださいませ。

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縞模様

縞模様の「シマ」という名称は「島」からつけられたと聞いた時、
驚くと同時にああ、そうだったのかと納得もしました。
縞という漢字に本来「ストライプ」の意味はないそうですし、
焼き物では「櫛目」など道具の名前でよんだり、
または麦わら 木賊(トクサ)などとよびならわしてきたのです。

シマと呼ばれるようになったのは、
室町時代に盛んに舶来した縞文様の織物の大流行によるようです。
それらは当時カルチャー・ショックとも言うべき新風を
この国にもたらしたらしたのでした。

さまざまな「縞」の名前は、たとえば「間道」は広東
(一説には漢道・シルク・ロードのことともいいます)、
「弁柄縞」はベンガル、「せいらす縞」はセイロンといった具合に
はるかな土地の名前です。
それまで唯一の外国だった中国よりも彼方の、見知らぬ港や島々の名前は、
当時の新し物好きの人たちの憧れをかきたてたことでしょう。

縞文様はそんなわけで、まず茶人達に好まれ、
そして婆娑羅(ばさら)者、歌舞伎者といったお洒落なサブ・カルチャーの
担い手達のトレンドになってゆきました。
宮廷貴族はなぜか縞文様を好まなかったのです。

今でも京の雅に江戸の粋と対比されますが、
雅な文様の代表が、はんなり花模様なら、
粋はしゃっきり縞模様でしょう。
江戸の粋筋の人たちに好まれて、新しい縞文様もたくさんうまれました。
江戸時代の「桜狩遊楽図屏風」には、とりどりの縞模様を身にまとった
当時のファッション・リーダー達の姿が描かれています。
女性と若衆のちがいは判然とせず、着こなしはだらしな系なのもおもしろい。

ヨーロッパでも同じように縞文様は愛されたり嫌われたりしてきました。
中世の図像で、縞文様を着ているのは、異端者、悪い騎士、旅芸人などなど
「多かれ少なかれ悪魔と関係のある人々(ミシェル・パストゥロー縞文様の歴史)」、
つまりは社会から排斥された人々だったのです。

何故そんなに嫌われたのかはっきりした理由は分かりませんが、
パストゥローは縞文様のどちらが地、どちらが文様かわかりにくいことが
価値の転換を象徴するからではないかと述べています。
確かに伝統的に縞文様を身につけているピエロや道化は、
おばかで笑わせてくれるけれど、時には王様や権威にしっぺ返しもする
トリックスターでもありますね。

縞文様はワッと流行するときがあるようです。
フランス革命がそうでした。まさに価値の転換の時代です。
ブルボン朝の百合の花は三色旗(これも一種の縞でしょう)に変わり、
ここでも貴族の花文様に対して市民の縞文様があふれます。

なかでもロベス・ピエールの縦縞のフロックコートは有名です。
写真でみただけですが、とっても細身で大胆な縞のコートは実に粋で、
多くの人をギロチン送りにした冷酷漢のイメージしか持っていなかった私は、
革命家の別の一面を見たようで驚かされました。
その後も、機械紡績で大量に生産されるようになった縞文様は、
帝政時代スタイルの家具の表地として随分流行りました。

しかし、近現代の縞文様は不幸でした。
なにしろ囚人服の文様として定着してしまったんですから。
縞文様は目立つので危険や禁止のしるしに今も使われていますね。
どうも西欧では縞文様はどことなくマイナーなイメージを背負わされているようです。
さまざま時代の絵画や挿絵の中に描かれた縞文様は、
その時代の価値観をそっと教えてくれるのです。

かわいそうなのはシマウマです。
ヨーロッパに始めてシマウマが知られたとき、
シマウマの模様が左右で違うかどうか論議されたといいます。
なぜなら「全能の神がそんな余計な手間をかけるはずがない」からだとか。
そのせいかどうか、16,17世紀の動物学者は
「この野生のロバを危険で不完全な獣、それどころか不純なケダモノ」
とみなしていたと言います。
持って生まれた縞文様のせいで、何かと槍玉にあげられて迷惑だったことでしょう。
啓蒙時代になってやっとそんな不当な言われ方もなくなったようですけど。

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私は縞文様が大好きで、お湯のみにも花入れにもよく描きます。
筆で描いた線の変化は紬のネップのような自然なリズムをかもします。
描いているとなんだか元気が出る文様です。
そろそろ、また縞模様の流行する時節が来そうな予感がします。

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さくら文様

先日お訪ねした加賀の橋本薫さん。
曽宇窯として美しい色絵の器を作り続けています。

実は薫さんとは、焼き物を通して出会ったのではなく、
俳句の投稿を通してでした。
私は俳句から遠ざかって12年以上になりますが、
薫さんはその間も詠み続けています。
そして、たいそうな読書家でもあって、
加賀の小さな村の小川のせせらぎのほとりに暮らしながら、
思考は古今東西を、自在に飛び回っているようです。

薫さんがずっと描き続けてきた文様。
薫さんが手がける前から、ずっと人の手を通して描き続けられてきた文様。
そこには、人の思いがたしかに息づいているものでした。

人が何か絶対的なものの前に
(それはひと言にしてしまえば自然ということでしょうけれど)
祈りをこめるしか術のなかった時代に、
その思いを託すもののひとつに文様があったのではないでしょうか。

今、その頃と同じように文様へ祈りをこめることは少なくなったけれど、
その意味をあらためて知ってみたい。
そんな風に思います。
文様に描かれた思いを、日々の暮らしの中で楽しむことができたなら。
工芸を通して、新鮮な生活のシーンが生まれていくような気がします。

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ということで、
薫さんに「文様つづり」というテーマで、折々文章を寄せていただくことになりました。
私と違って、知的な!文章ですし、
古文や知らなかった本や著者名なども出てくるかと思いますが、
読んでいただきやすいいように、改行させてもらっています。
でも、難解なお話しではないので、何度か味わいながらお読みいただければ、
と思います。(わたしもそうしています。)
第一回は、まさに、今、「さくら」です。

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「さくらの古名は、ははかというのよ」とおしえてもらったのは、
吉野山、中千本の茶店でのことでした。
水分神社の枝垂桜が一気に満開へ向う暖かな日で、
突き出しの山菜を食べ終わる頃には、
花吹雪が眼下の谷を薄紅色の龍のように流れていました。

古事記にも天岩戸のまえで神々が
「天の香具山のははかとって占ひ」と、あります。
さくらは聖樹だったのでしょう。
さくらの一木造の立木仏がしばしば見られるのも、
聖樹としての桜への思いが揺曳しているからかもしれません。
「ははか」、遠くからの声のようなかそけき響き。

なかでも植物文様は風土と、そこに育まれた文化を映しだします。
文化はそれぞれのトーテムの花をもっているといってもいい。
ヨーロッパでは薔薇が、オリエントでは石榴やナツメヤシ、
エジプト、インドの蓮、などなど。

それらの花々は文様ばかりでなく文学にもさまざまに咲き誇っています。
日本ではやはりさくらでしょう。
万葉集には梅のほうが数多く詠まれているとはいえ、
さくらのうたもないわけではない。「この花」といえば桜です。

  このはなの一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の
                  言ぞ隠れるおほろかにすな  

                                 藤原広嗣(巻八)

さくらへの並々ならぬ思いが伝わってくる一首ですね。

  うちなびく春きたるらし山の間の遠き木梢の咲き行くみれば   

                                 尾張連

このうらうらと咲き行く梢もさくらでしょう。
渓流釣りに谷筋をたどっていると今でもこの歌のような景色が眺められます。
ある夕暮れ、谷川を溯上していて不意に一幹のさくらにであいました。
蔓に絡まれた、その木は、はらはらと花びらを零しつつ、
黄昏の光のなかに佇んでいました。
うつろいながら同時に永遠そのもののように。
不思議なものを見た、と思いました。

:::

さて平安時代に入ると桜は文学の中に繚乱と花開きます。
源氏物語のあまたの女性たちの中で、
紫の上が樺桜になぞらえらえているのも、その例。
ただ工芸の伝世品は残念なことに多くはありません。
数々の歌に歌われたさくらをどう表現し、
身近に置いていたかしりたいものです。
例えばこの歌のような。

  はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花にもの思ふ春ぞ経にける  
                      式子内親王(新古今集巻二)

「花にものもふ春」、
私の好みに引き寄せて解釈しすぎているかもしれませんが、
内親王のもの思いはまるで近代のアンニュイのようです。
多くの女性歌人の中で、複雑な心境をのぞかせる
式子内親王の花の歌が私は好きです。
万葉の古代的呪力を帯びた花から、
桜によせる心の振幅のなんと大きくなっていることでしょう。
しかし、式子内親王の歌は、さくらのはかなさだけを歌っているのでしょうか。
たしかに、絵画の中のさくらは、六道絵の屍の傍らに描かれ、
湯女や遊女の着物に描かれ、地上の歓楽のうつろいやすさの象徴のようにもみえます。
そのとおり花はたちまちうつろい消え去りますが、
その無はたんなる無ではない。
それは闇の中に犇く螺鈿の青貝の妖しさにも似て怖ろしいまでに充実した無です。
枯山水の庭に響き渡る水音のように、
そこにない花はかえって私達の心を捉えて放しません。

文様は華美で無意味な装飾ではありません。
人々にとって深い意味のある象徴だからこそ廃れることなく変化し続け、
生きながらえるのです。
仏教的無常観もさくらという象徴を得て、
日本人の心に根を下ろすことができたのではないでしょうか。
武士の時代になると、桜文様は能衣装の中に、
蒔絵のなかに満開のときを迎えます。

名月碗の朱漆の中にひんやり輝く青貝のさくら。
古九谷の大皿の濃緑の苔の上に散る紺青の花。
最もうつろいやすいものの中に永遠を感覚すること。
それはきわめて日本的な心のありように思えます。
両極とも見えるものが、此の花の一節の中に咲いています。
呉須で蒼い桜の花を描いては、透明な釉薬の下に永遠に閉じ込める。
私も染付のさくらを描きながら、遠い春の夕暮れに見た、
名もない桜の気配を自分なりにたどってみようとしているのかもしれません。
                                  
                                        橋本薫

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